パビリコンコートの歴史について パビリコンコートの歴史について

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概要

株式会社 京都山中商会パビリオンコートは、明治~戦前を中心に世界を舞台に活躍した古美術商・山中商会の京都支店であった。山中商会は、米国や英国に多くの支店を持ち、優秀な東洋美術品を輸出販売した国内最大級の古美術商であった。その中で京都支店は主に海外から日本を訪れた顧客に対して古美術を展示販売する目的で設立された。
現在は当時の雰囲気を今に伝える建物と展示品で歴史とロマン漂うノスタルジックな貸会場として多くのお客様にご利用いただいている。現在使用している洋館は古美術品の展示場として1920年(大正9年)に清水組(現在の清水建設)の手で建築された。京都で最初に建築された鉄筋レンガ造りの建築物であり、2003年に登録有形文化財に指定された。

山中商会の歴史

大阪北浜にあった山中商会は、かねてからアーネスト・フェノロサ(1853~1903)やウィリアム・ビゲロー(1850~1928)といった日本美術に造詣の深い米国人との関係が深かった。その関係を活かして、早くから海外展開を視野に入れて活動したものの、海外における本格的な活動は他業者より少し遅れをとっていた。そんな中で山中商会は顧客からの信頼を得るために日本人スタッフに語学以外にも現地の商業学校においてアメリカ式商売の教育を行った。また東洋と西洋の融合した外国人好みの商品を積極的開発する柔軟な姿勢により、異国の地で信頼の獲得に成功した。このように山中商会は、1894年にニューヨークで営業を開始して以来、順調に支店を増やし事業を拡大していった。

山中商会の海外事業の中心的な役割を果たしたニューヨーク支店は1917年にはアッパー・フィフス・アヴェニューと呼ばれる5番街の680番地(53丁目と54丁目の間)に移転することができた。店舗が入居したビルは東洋美術品の収集家でも知られる実業家のロックフェラーがオーナーであった。ビルの裏にはロックフェラーの私邸があり、現在その私邸跡地には、ニューヨーク近代美術館(通称MOMA)がある。またロンドン支店では、英国王室との取引があり、その証でもあるロイヤルワラントを1919年にイギリス国王ジョージ5世より、翌年1920年にメアリー王妃より賜る栄誉をあずかった。

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古美術以外の分野においても山中商会が足跡を残したエピソードがある。当時ニューヨーク支店の主任だった林愛作(1873~1951)は、その手腕を買われて、帝国ホテル支配人となった。その林の紹介でフランク・ロイド・ライト(1867~1959)が帝国ホテルの建築設計をおこなうこととなった。ライトは浮世絵の収集家でもあり、林とは山中商会時代に旧知の間柄であった。

しかし、山中商会の事業は日米の関係悪化により苦難の時代を迎えることとなる。太平洋戦争の開戦後、米国にあった山中商会の資産は米国の管理下に置かれることになり、その後2年間をかけて競売にかけられ、すべてを失うことになった。競売が終了した後、山中商会ニューヨーク支店が閉店した際のニューヨークタイムズには「5番街680番地にあった山中商会は土曜日5時にドアを閉めたが、そのドアは再び開くことはない。」と掲載された。また米国内のドイツ、イタリア、日本の法人、計1793社の内10社だけその資産接収のプロセスが一般公開されることになった。10社の内8社までは、規模の大きな会社から順番に選ばれ、残りの2社は一般市民によく知られた企業から選ばれたが、その残りの2社とはドイツのレンズメーカーのカールツァイス社と山中商会であった。
戦後、山中商会はニューヨークにおいて現地のスタッフの尽力で1952年に再開店したが、多くの競合他社との競争に勝ち残っていくことはできなかった。また、大阪の山中商会も北浜の土地を売却するなどして戦後も事業を継続したが、その規模は戦前と比較すると小さなものであった。
一方、京都山中商会は大阪の山中商会から離れて独自で事業をおこなうことになる。山中商会にとって不幸中の幸いであったことは、顧客がたくさんいる米国によって占領されたことであろう。戦後は京都山中商会にも多くのコレクターが訪れ、米国内の美術館との取引も続いた。
しかし、順調だった京都山中商会の事業も日本経済の高度成長に伴う美術品価格の高騰や円高により海外との古美術事業の縮小を余儀なくされた。
現在は当時美術品の陳列館であった洋館を活かし、ノスタルジックな雰囲気を特長した貸会場としてご愛顧いただいている。

山中商会のキーパーソン「山中定次郎」 山中商会のキーパーソン「山中定次郎」

山中定次郎
山中定次郎(1866~1939)は丁稚から身をおこし、その実力を当時山中商会社長の山中吉兵衛が認めて山中家に婿入りした。28歳の時、いとこの山中繁次郎と渡米。その後ニューヨークやボストン、アトランティックシティー、ロンドンと矢継ぎ早に支店をつくるなど事業を拡大し、のちに社長となった。盆栽や日本庭園事業をおこなう園芸部門をつくったり、西洋と東洋を融合した家具を製造販売したり、古美術の販売にとどまらないセンスの持ち主であった。また、当時まだ珍しかったエジソンが発明したばかりの映写機を輸入して長編映画を大阪で上映するなど好奇心も旺盛な経営者であった。山中定次郎なくして山中商会の海外における成功はなかった。後年、定次郎は京都岡崎南禅寺付近に自宅をかまえた。
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年表 pc_h3_chronology.gif

1715年(宝暦元年) 伊丹の庄屋
1818年(文政15年) 初代山中吉兵衛(1767-1827)天満で分家して経師屋から古美術商へ
1894年(明治27年) 山中定次郎と繁次郎が渡米し、ニューヨーク西27丁目の仮店舗で営業開始
1895年(明治28年) ニューヨーク西27 丁目200 番地(マディソンスクエアの近く)に本格的な店舗を構える
1900年(明治33年) 山中合名会社を設立
大阪北区福島に家具製造工場を建設。輸出用の室内装飾品や和洋折衷の家具の製造が中心で100名もの職人が働く大きな工場であった
1904年(明治37年) 日露戦争勃発
京都山中合名会社(現在の株式会社京都山中商会パビリオンコート)設立山中商会が製造した家具がセントルイス万博で名誉賞を獲得
1906年(明治39年) 京都山中合名会社が英国王室初日本公式訪問でお越しになったコンノート殿下(英国王エドワード7世の弟)の京都における宿泊ホテルの内装を担当
1909年(明治42年) 大阪あった家具工場が大阪キタの大火により焼失
1917年(大正3年) ニューヨーク支店が5番街680番地(53丁目と54丁目の間)に移転
ニューヨーク支店 ロンドン支店 ワシントン支店
1929年(昭和4年) 世界大恐慌
1931年(昭和6年) 満州事変
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退
山中定次郎が死去
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件
1940年(昭和15年) ドイツによる空襲激化により、ロンドン支店閉鎖
1941年(昭和16年) 日米開戦
日米開戦と同時に米国における山中商会の資産のすべてが、米国の
管理下に置かれる
1942年(昭和17年) 米国敵国資産管理人局の管理のもとで営業をしていた山中商会
ニューヨーク支店が閉店
1945年(昭和20年) 終戦
京都山中合名会社はそのまま事業を継続
1992年(平成4年) パビリオンコートとして貸会場業を本格化する
2003年(平成15年) (株)京都山中商会の門、ロビー棟、洋館が登録有形文化財に指定される

京都山中商会に来館した著名人 京都山中商会に来館した著名人

1922年
エドワード8世(英国皇太子)
1924年
チャールズ・リンドバーグ(米国冒険家)
1926年
グスターブ(スウェーデン皇太子)
1948年
ヘレン・ケラー(米国 教育家 社会福祉活動家)
1960年
アルフレッド・ヒッチコック(米国映画監督)
1969年
ヒューバート・ハンフリー(米国副大統領)
1970年
マルガリーテ2世(デンマーク王女)ほか

参考資料:

ハウスオブヤマナカ 朽木ゆりこ著新潮社 山中定次郎伝
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